凪ひかる
「午前0時のオフィス」
東京の高層ビルの一角。
広告代理店で働く**橘悠真(たちばな ゆうま)**は、静まり返ったオフィスで一人、資料を整理していた。
時刻はすでに深夜0時。
他の社員はほとんど帰り、オフィスには自分ともう一人だけ。
「遅くまで残業、ご苦労さま。」
背後から聞こえた落ち着いた声に、悠真は振り返る。
そこに立っていたのは、営業部の凪ひかる)。
32歳。部内でもカリスマ的な存在で、冷静かつ的確な判断力を持つ彼女は、誰もが一目置く存在だった。
「課長こそ、まだ残ってたんですね。」
「あなたが残ってるのを知ってたから。」
彼女はそう言って、デスクに寄りかかる。
「最近、無理してない?」
「……どうしてそう思うんですか?」
「部下のことくらい、ちゃんと見てるわよ。」
葵の瞳が真っすぐ悠真を見つめる。
「……課長は、俺が思ってるよりずっとよく見てるんですね。」
「当然でしょ。」
ふっと笑う彼女の表情に、悠真の心臓がわずかに高鳴る。
「……課長は、俺のことをどう思ってますか?」
「どうって?」
「俺は……課長のことを特別な存在だと思っています。」
一瞬、葵の瞳が揺れた。
「冗談?」
「本気です。」
静寂がオフィスを包む。
「……バカね。そんなこと言われたら……。」
葵は小さく息をつき、デスクに手をついた。
「……帰りなさい、橘。」
「帰れません。」
「……どうして?」
「課長が好きだから。」
その瞬間、二人の距離が一気に縮まった。
悠真はそっと葵の頬に触れ、静かに唇を重ねた――。
「午前0時のオフィス」―続き―
触れた唇は、驚くほど柔らかかった。
けれど、葵はすぐに身を引いた。
「……橘、何をしてるのか分かってる?」
冷静な声。だが、揺らいでいるのが分かった。
「分かってます。」
「なら、もう一度考え直して。」
「……後悔、してますか?」
「……」
葵は答えられなかった。
深夜のオフィス、ふたりきりの空間。
いつもは冷静な彼女が、今はほんの少しだけ動揺を見せている。
「課長が嫌だったなら、謝ります。」
「……嫌なんかじゃない。」
その言葉が、すべてを決定づけた。
悠真は迷わず葵の手を取り、そっと指を絡める。
「じゃあ、どうして?」
「……私は上司で、あなたは部下だから。」
「そんなこと、気にしてるんですか?」
「当たり前でしょ。もし誰かに知られたら……」
「知りませんよ。こんな時間に誰もいないオフィスで。」
言葉を詰まらせた葵の頬に、悠真はそっと手を添えた。
「俺は……課長を本気で想ってます。」
「……バカね。」
葵の声は、震えていた。
「バカでいいです。」
そして、今度は葵の方から、そっと唇を重ねた。
一度、二度。
深くなるたびに、互いの心臓の音が重なる。
――もう、後戻りはできない。
その夜、オフィスの静寂の中で、ふたりは新たな関係へと踏み出した。